文化のご紹介(朝倉)

多くの文化遺産が残る都市

平塚川添遺跡

筑後川の支流 小石原川中流域の低地に立地する、弥生時代後期を中心とするこの地域の拠点集落遺跡。いわゆる邪馬台国時代に、同時代の遺跡の集中する東側の低台地を背にして、河川を利用した環濠を幾重にも巡らして集落を囲み、南西の筑後方面に対しているような様相を呈している。約4haの調査によって、当時の拠点集落の全体像をある程度知ることができ、貴重な遺跡といえる。

国 史跡 平成6年5月19日指定

平塚川添遺跡公園

朝倉市平塚

弥生時代中期から古墳時代初頭にかけて営まれた大規模な低地性の多重環濠集落で、国指定遺跡になっています。集落を取り囲むように幾重もの環濠が巡る平塚川添遺跡では、防御施設と思われる柵列や物見台、環濠にかかった橋の跡などが発見され、また、多量の生活土器のほか、銅鏡や貨泉、管玉や木器の未製品、礎板などの木製品が多数出土されました。当時の一般的な住居や倉庫の他、特殊な建物・環濠を渡る橋、周辺の自然環境などを調査結果に基づき、邪馬台国時代が再現されている。

小田茶臼塚古墳

朝倉市小田

周溝まで含めた全長が63mの小型の前方後円墳で、古墳時代中期の築造と考えられる。墳丘は後円部三段、前方部二段築成で、葺石がある。石室は扁平割石積の初期横穴式石室で、南西に開口する。副葬品として甲冑(横板鋲留短甲・衝角付冑)・武器(鉄矛・鉄刀・鉄鏃)・馬具(轡・絞具・四環鈴)・玉類(大型勾玉型滑石製品その他)等が、くびれ部平坦面からは祭祀に係わるものと思われる初期須恵器大甕や大型器台などが出土した。

国 史跡 昭和54年9月4日指定

堀川用水及び朝倉揚水車

朝倉市山田

筑後川は「利水の方法を知らず」といわれた。堀川用水は寛文3年(1663)筑後川に初めて設けられた大規模用水で、「凡そ九箇村百五十町余の圃皆田となりぬ」と『筑前国続風土記』にある。堀川上流では土地が高いために、さらに水車で水を汲み上げる。寛政元年(1789)には既に存在が記録に残り、現在でも菱野(三連)、三島(二連)、久重(二連)の水車が、現役で30町歩以上の田を潤している。

国 史跡 平成2年7月4日指定

杷木神籠石

朝倉市杷木林田・穂坂

神籠石は、山の尾根と谷をいくつか取り込んで大きく外周に土塁をめぐらした古代の山城の一種。福岡県を中心に、佐賀、山口、岡山、愛媛、香川の各県に分布している。大野城や基肄城等のいわゆる朝鮮式山城と築造技術など共通する点が多いが、神籠石は『日本書紀』等の記録に記載がなく、斉明天皇の朝倉橘広庭宮との関係も取りざたされる謎の山城。杷木神籠石は全長2.3㎞で、切石を並べて土塁の崩壊を防ぎ、谷部では2ヶ所で水門が発見されている。

国 史跡 昭和47年12月9日指定

狐塚古墳出土遺物

朝倉市教育委員会

県指定史跡 狐塚古墳の発掘調査で出土した遺物。馬具(杏葉、鈴、鞍金具、絞具)、装身具(耳環、玉類)、刀装具、刀子、鉄鏃、鉄釘、鉄製紡錘車、土師器、須恵器などがある。

朝倉市 有形(考古資料)  昭和45年9月1日指定

長安寺跡

朝倉市須川

奈良時代の寺院跡。「長安寺」は現在の字名で、記録には「朝鞍寺」、「朝闇寺」とあり、「あさくらでら」と呼ばれていた時期があったらしい。この周辺は朝倉橘広庭宮の有力な推定地であったが、発掘調査の結果、7世紀にまでは遡らない寺院跡であることがわかった。奈良時代の多数の瓦や土器に混じって、墨書土器や木簡が出土しており、当時の貴重な文字資料となっている。

福岡県 史跡 昭和38年1月16日指定

普門院本堂

朝倉市杷木志波

普門院は、天平19年(747)聖武天皇の勅願をうけ、行基が筑後河畔に創建したものが、度重なる水害のために現在地に移築されたものと伝えられる。本堂は『筑後国続風土記』に「この寺の仏堂広からずと雖も、その営作の精巧なること国中第一なり」と記されており、桁行三間梁間三間の宝形造りで、総瓦葺き、四周に緑をめぐらす。建築様式はいわゆる和様であるが、天竺様式・唐様式もわずかながら混入しており、鎌倉時代末期の建造と考えられている。

国 重要文化財(建造物)  大正2年4月14日指定

堤当正寺古墳

朝倉市堤

全長70mの前方後円墳で、築造年代は5世紀中頃と推定される。墳丘は二段築成で、葺石が見られる。埋葬施設は前方部・後円部に各1基が確認された。前方部は小型竪穴式石室で、石室外から鉄剣が出土している。後円部は天井石の状況から竪穴式石室と推定している。未盗掘の可能性が高いので、内部調査は実施せず保存措置をとった。石室外から甲冑類が出土した。また、墳丘からは円筒埴輪や形象埴輪などが出土している。

福岡県 史跡 平成14年4月5日

銅鐘

朝倉市杷木志波

いわゆる朝鮮鐘で、高さ67.0㎝、口径49.1㎝、旗挿はやや内方に傾く。撞座を挟んでそれぞれ一対の向かいあう天人像があり、周囲には飛雲文がみえる。円清寺は福岡藩草創の重臣栗山備後が黒田如水の菩提を弔うために建立した寺で、梵鐘は黒田長政が日田郡渡村から持ち帰ったものをここに寄贈したと伝えられる。以前は雨乞いに霊験があるとされ、干魃が続くとこの鐘を筑後川に沈める風習があったという。

国 重要文化財(工芸品)  大正1年9月3日指定


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